天武天皇と持統天皇!~天皇中心の国を目指す~

飛鳥時代

こんにちは、nonameです。

飛鳥時代、古代日本が大きく姿を変えようとした時代に、強烈なリーダーシップを発揮して未来の日本の形を築き上げた夫婦がいました。それが、天武天皇(てんむてんのう)と持統天皇(じとうてんのう)です。

彼らがどのようにして “天皇を中心とした国” の土台を固め、歴史に深い足跡を残したのか、見ていきましょう。

天武天皇(てんむてんのう)と持統天皇(じとうてんのう)ってどんな人たちだったの?

この二人は、壬申の乱(じんしんのらん)という大きな戦いを一緒に乗り越えた、夫婦なんだよ。壬申の乱のとき、天武天皇は大海人皇子(おおあまのおうじ)という名前で、持統天皇はうののさららという名前だったんだ。大海人皇子は壬申の乱に勝ったあとに天武天皇となって、うののさららは、天武天皇が亡くなったあとに、持統天皇になったんだ。

天武天皇は戦いに勝った実力で、どんどん勢力を伸ばし、強大な権力を手に入れました。天武天皇は、自分の家族すなわち皇族を中心とした国づくりを進めます。

天武天皇は、戦いに勝ったことで「日本で一番強い人」になったんだ。だから、自分が天皇になって、天皇の家族すなわち皇族が政治をする、「皇親政治(こうしんせいじ)」というやり方を始めたんだ。

今までは天皇のまわりの豪族も力を持っていたんだけど、豪族の力を抑えて、代わりに皇族の力を強くするようにしたんだ。こんなことができるほど、天武天皇の持っていた権力はすごかったんだ!

へえ、新しいやり方に変えたんだ!強い天武天皇だからこそ、できたんだね!

具体的にどんな新しいことをしたの?

二つの大切なことをしたんだ。一つは、土地や人を全部国のものにする「公地公民(こうちこうみん)の徹底(てってい)」。もう一つは、「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」といった本を作り始めたことなんだ。

「公地公民」は覚えているよ。今までは豪族が持っていた土地や人を、国のものにしちゃうんだよね。これで国の力が強くなったんだ!

「古事記」や「日本書紀」は何のために作り始めたの?

古事記や日本書紀は、天皇の先祖(せんぞ)は特別な神様の血を引いているんだよ、と書くことで、「天皇はほかの人とは違う、特別に偉い人なんだ!」ということを、みんなみわからせるために作られたんだ。

また、天武天皇には、次の天皇の候補として二人の息子がいました。一人は後のうののさらら(後の持統天皇)を母とする、草壁皇子(くさかべのおうじ)。もう一人は、優秀だったけど選ばれなかった、大津皇子(おおつおうじ)です。

天武天皇の後継者候補の息子が二人いたんだ。けれど、大津皇子は過ぎに謀反(むほん)を考えていると疑われ、殺されてしまうんだ。

そうなんだ、かわいそう!じゃあ草壁皇子が天皇になったの?

大津皇子と草壁皇子は母親が違って、草壁皇子のお母さんは、うののさらら、後の持統天皇だよ。大津皇子のほうが優秀だったみたいなんだけど、大津皇子のお母さんは先に亡くなってしまっていたんだ。

大津皇子のほうが優秀だったけど、草壁皇子のほうが次の天皇になる確率が高かったんだね。

そうなんだ。大津皇子が殺されたのも、実は草壁皇子を天皇にしたい持統天皇の仕業じゃないかとも言われているんだけど、本当もことはわからないんだ。

そうなんだ・・・持統天皇の気持ちは、本人が優秀でも、周りに助けてくれる人がいないと、天皇には選ばれなかったんだね。

その通り。天皇になるためには、自分の能力だけじゃなくて、周りの助けが必要だったんだよ。

でも実は、大津皇子が亡くなってからしばらくしたら、草壁皇子も急に亡くなったんだ。これにうののさららは大変ショックを受けたんだ・・・。

そうだよね、自分の子供の草壁皇子が亡くなって、どうしよう・・・って状況だよね。

でも実は、草壁皇子には軽皇子(かるのおうじ)という子供がいたんだ。だからうののさららは、この軽皇子を次の天皇にしようと考えたんだ。ただ軽皇子はまだ小さかったから、大人になるまでの間、自分がピンチヒッターとして天皇になることに決めたんだ。うののさららが持統天皇になった瞬間だよ!

そういうことだったんだ!

夫が天武天皇で、それから子供を次の天皇にしようとしたけど亡くなっちゃって、次は孫を天皇にするためにまずは自分が天皇になったんだ。なんだかすごい人生だね!

その通りですごい人生だったんだ!

また持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」を作ったんだ。とても広くて道がまっすぐな、日本で最初の都なんだ。

藤原京!これからいろんな都が出来ていくのは知っているよ。最初の都は持統天皇が作ったんだ!日本の中でも大きな出来事だったんだね!

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