こんにちは、nonameです。
日本史を勉強したことある人なら必ず聞いたことがあるであろう「藤原氏」という名前、日本の歴史で最も長く権力を握った一族です。
その「始まりの父」ともいえるのが藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物です。彼は父の死後、幼くして一族が敗者の側に立たされるという大ピンチを経験しました。
しかし、不比等は諦めませんでした。彼は優れた才能と粘り強さで、国家の法律作りや、新しい都の建設をリードし、後に続く藤原氏の時代の土台を築き上げます。

さあ、今日は藤原不比等(ふじわらのふひと)という、とっても凄い人のお話をするよ。

ふじわらって、きいたことがある!
どんな人たちの名前だっけ?

もともと不比等の家は、「中臣(なかとみ)」という名前だったんだ。不比等の父、中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、天智天皇から「藤原(ふじわら)」という新しい姓をもらったんだ。
不比等は11歳のときに父を亡くし、14歳のときに天智天皇の後継者を巡って起きた、「壬申の乱」に巻き込まれました。

不比等の一族は、不比等の父親の藤原鎌足が天智天皇と仲がよかったこともあって、壬申の乱では天智天皇の息子だった大友皇子の味方をしたんだ。でも残念ながら、大友皇子は負けてしまった。だから不比等の一族は、負けた側、になってしまい、苦しい立場になってしまったんだ。


でも、ここからが不比等の凄いところだよ。特に持統天皇のとき、草壁皇子の面倒見をする係だったんだけど、一生懸命働いたんだ。持統天皇はだんだん不比等の真面目さや頭の良さを気に入って、不比等は徐々に大事な仕事をまかされるようになっていくんだ。

すごいね!どんな大きな仕事をするようになったの?

大宝律令(たいほうりつりょう)という国の法律作りをしたことだよ。

実は、持統天皇には法律を作りたい理由があったんだ。息子の草壁皇子が亡くなってしまったから、持統天皇は代わりに孫の軽皇子を次の天皇に継がせたかったんだ。
ただ、孫の軽皇子はまだまだ小さかったから、政治なんてできないんだ。だから軽皇子が大人になる前に、法律をきちんと作って、できるだけ問題を解決しておきたいと思っていたんだ。この思いを助けるために、不比等は大宝律令の作成を始めたんだ。


法律を作るなんて、不比等はやっぱり頭がよかったんだね!

そうなんだ、とっても頭がよかったんだよ!大宝律令は持統天皇のときに取り掛かり始めて、孫の軽皇子が文武天皇(もんむてんのう)になったときに、制定されたんだ。
また「なんと(710年)立派な平城京!」で有名な平城京ですが、こちらも不比等が中心となり、藤原京からの遷都が行われました。

平城京、知っているよ!これも不比等のおかげだったんだ!

その通り!平城京は、中国の唐をお手本にした、広く立派な都なんだ。不比等が中心となって平城京を作り、国の力を世の中に見せつけたんだ。今まで都のあった藤原京から見ると、北の方に位置するんだ。

大宝律令の制定や平城京への遷都で大活躍の不比等ですが、どのように藤原氏の権力を次の世代につなげたのでしょうか。不比等の戦略について、見ていきましょう。

不比等には、優秀な子どもがいたんだ。まずは息子たち、彼らはまとめて藤原四兄弟と呼ばれていて、次の時代で大きく活躍するんだ。次に娘たち、宮子と光明子という娘がいて、不比等はそれぞれを文武天皇と聖武天皇と結婚させているんだ。

自分の娘を天皇と結婚させるってことは、なんか不比等の権力が強くなりそうだね!

その通り!天皇と親族関係になることで、不比等の影響力はどんどん大きくなる。こうして天皇家と結びついた藤原氏は、すごく大きな権力を手にして、次の時代に進んでいくんだ。


藤原鎌足、藤原不比等は個人の力が凄かった印象だけど、これからは「藤原氏」として存在感がでてくるんだね!

そうなんだ。そしてその藤原氏を倒そうと「反藤原氏」の勢力がでてくるんだ。これからの時代は、「藤原氏」vs「反藤原氏」という構図を意識すると、わかりやすいと思うよ!

なるほどね!今回は藤原不比等の話を通じて、不比等の活躍と藤原氏全体のイメージを知ることができて良かったよ。次の話も楽しみにしているね!


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